篠突く雨。

それはひどく心を打ち付ける。



「どうかお願いします、神様仏様」

このように一度は祈った事がある人は多いだろう。
簡単なところで云えば初詣や受験などでもお願いをしますよね。
さて、宗教を信じる信じないと共に、神や仏がいるかいないかという議論がよくあります。

「いや、神も仏もいないね。だって困っている人が沢山いるままじゃないか」

「そんなの神様も仏様も全員救える訳じゃないんだから仕方がないだろう?」

神も仏もいないから救いなどない。
神も仏もいるけれど救いは全員には訪れない。

うーん、どっちなんだろう……?

どっちというより、多分ね、この中間だと思うんです。

筆者の考えでは神様も仏様もいます。
現在進行形で「いる」のか過去形で「いた」のかは解らないけれど
少なくとも神や仏という存在は、これまでに一度は「在った」ものだと思います。

じゃあ、救いは?お願いは叶えてくれるの?

救いは後で書くとして、お願いは叶えてくれるかも知れません。
そもそも個人的な考えでそうしたお願い事をする場所や対象というものは
「そうされる事でそうなるように動く一つのシステム」だと考えています。

場所も対象もシステムの一つでしかなくて、大勢の人間がそこで同じお願いをする。
それが集まって重なってその場所と対象を「そうしている」と思っています。

そうしてそこにはそのお願い専門の「場所と対象」が完成する訳で。
神様も仏様も関係なく、お願いというのは「その力」を借りて「成就し易く」なるものだと思います。

筆者のように不幸を集める星の下の人間だと難しいかも知れませんが。

さあそれなら救いはどうか?

救いはね、ありません。
別にネガティブに考えているつもりはないし、神様や仏様を馬鹿にしている訳でもないですよ。
神様や仏様は「いました」と思いますので、その方々の事は無いものとしては扱えません。

ただね、だからといって助けるかな?

確かに捨てられている動物や虐げられている人、利権の為に破壊される自然
そうしたものを見て感じて神様や仏様が何も思わないはずがない。
もしそれらを救える力を持っているのなら迷わず行使されるだろうとは思う。

しかし救っても救っても「キリ」はない。
そして本当であれば「救われているだけではいけない」はずだと思う。

「それぞれが救いの手を差し伸べられなくて良い状態を作らなければいけないのだから」

自分でなんとかしろって意味じゃないですよ。
皆で皆をなんとかしていかなきゃいけないって意味です。

神様や仏様がわざわざ救ってくれなくても大丈夫なように手を貸しあうんです。
さらにはそうならないように考え気付き行動するんです。

お釈迦様は悟りを開いた時に思ったそうです。
「ああ、悟りを広めるのは無理だ」と。

それは何故か?

悟れるような人間が非常に少ないであろうと思われ
一部が悟ったところで悟りそのものは埋もれてしまうだろうと考えたからです。

そう、先ほど書いたように、救ったところで
「救われる事しか考えない人間」には意味の無い救いになってしまうから。

それでもお釈迦様は悟りを説く事を説得され、弟子達に悟りを説いたところ
数人の弟子が悟りを開く事が出来たそうではあるらしいのですが。

だから「救わないのが救い」なんだと思います。
「功徳が足りない」とか「もっと不幸な事はいくらでもある」とか関係ありません。

本当なら辛かったり悲しい思いをしている人は全員救われれば良いんです。

罪なんて生きていれば犯しています。
苦しまなければいけないなんて事はありえない。

生き物は幸福に生きるために在る。

なので神様も仏様も現在進行形で「いる」としても救わないんだと思います。
救っても仕方がないし、救われなくても救い合うように成って欲しくもあるし
単純に目や手が届かない範囲もあるだろうし、何より「都合の良い存在」じゃないし。

ただ目印であれば良いんです。
簡単に云えば目標かな。

誰もがそう成れる可能性は持っている。
またそう「気付ける」ために。

真の「救世」は、今はっきりと存在している自分達が行なえるものなんだと思いますよ。
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by ryu-cat | 2015-01-31 14:45 | 日常雑記 | Comments(0)


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