独立自存。

選ぶのは自分。



「ヘヴン」を読破しました。

日数としては二週間が経っているけれど
実際には五日ほどで読んでしまったと思います。

睡眠時間を削ってでもどんどん読み進めたくなり
時計を気にしながら本を閉じるのが惜しくて堪りませんでした。

どう感じたか書き始める前に、主要な登場人物をピックアップしたいと思います。

あまり内容には触れないようにしたいと思いますが
もし興味を持って、これから読もうと思われている方が居たら
一度読破されてから、また読みに来て頂けると幸いです。

まず主人公。

名前はありません。「僕」という一人称視点の人物で、十四歳の男子中学生。
斜視を理由に男子グループからいじめを受けています。

二人目は「僕」と対を成すクラスメートの女の子、コジマ。

「僕」と同じくいじめを受けています。

いじめの理由は不潔さ。

コジマは「ある理由」から全身が汚れていて
それを理由に、コジマは女子グループからいじめられています。

三人目は「僕」をいじめている男子グループのリーダー、二ノ宮。

「僕」と同じ小学校に通っていた男の子で、いじめを楽しんでいます。

最後は男子グループのもう一人のリーダーのような存在、百瀬。

二ノ宮に新しいいじめの方法を提案したりしますが
暴力に参加する事は無く、特に楽しむ様子も見せません。

結論から書くと、やはり以前書いた「悪木盗泉」という言葉で表現したいと思いました。

『出来るからといってしてはいけない。利用出来るからと利用してはならない』

今回の話全てという訳ではありませんが、これがまず中心に在ると思います。

どうしていじめられるのか? どうして自分はいじめないのか?
いじめにどういう意味が在るのか? いじめる側はどういう意味でいじめているのか?
いじめはどうして起こるのか? いじめはどうして無くならないのか?
いじめる側といじめられる側の違いは何か? そもそも違いは在るのか?
いじめた結果何が得られるのか? いじめないと何が得られないのか?
弱いといじめられるのか? 強いといじめられないのか?
正しいとは何か? 間違いとは何か? その基準はどこか?

いじめは「何も知らない、何も解らない人間」がする事です。

いじめられてもいじめ返さないのは「何も知らなかった事を知り、解ろうと考える」からです。

幸せを語るには幸せを知らなければ語れない。
同じように不幸を語るのには不幸を知らなければ語れない。

痛みを知るには痛みを経験するしかない。
痛みを知り、その痛みについて考えれば、「それは自分で知らなければいけない」と理解する。

本当に空っぽだから、自分が経験するべき事を経験しようとしない。
経験出来なかったとしても、せめて解ろうとする事すら思いつかない。

それはまるで赤ん坊のように、脳に何も刻み込まれていない。
彼等は言葉で云うのであれば正義でも悪でもない。

それ以前の存在。まだ分岐に差し掛かってすらいない。

馬鹿にする意味ではなく、単純にまだ子供なのが二ノ宮だと筆者は思いました。

子供が昆虫を捕まえて握りつぶそうと、それがどういう事か知らないのだから
ただ何が起きているのか解らず、何回も同じ事を繰り返してしまう。

それでも感情は芽生えてくるので、優越感等に浸ってしまい勘違いをする。

一種の確信犯というか、そういうものが「原因」ではないでしょうか。

それに対し、その流れというか方式を把握しているのが百瀬。

「楽しくて(楽しいように感じはするのだろうけど)している訳ではない。
いじめている側は無作為に暴力を振るい、無抵抗を不思議がり面白がるだけ。
それが解らない限りいじめる側もいじめられる側も何も変わらない」

もしこれが感情論ではなく(意図としては感情論では勿論ないが)
考えて導き出された結果であれば、百瀬は中学生とは思えない経験を持っている。

感情論で上記の事は「よく云われる」

しかし「本当にそうだった」と考えるようになるには、中学生では時間が足りないように思う。

人それぞれ色々な環境があるから、一概にありえないとは云えないけれど
「それ」が本当に解っていると仮定すれば、百瀬は多分諦めているのではないか。

二ノ宮が「原因」で百瀬が「現実」といったところに成りますね。

その二つに立ち向かうのは、経験からしか得られないものを得たコジマ。

暴力を振るわれ、嘲笑され、それでも折れない「生き方」の権化。

「人間は何を感じる事が出来て何を考える事が出来るのか」
それを「あえて」いじめを受け入れる事により体現しています。

「原因」が解り、「現実」を知り、「生き方」を目の前にした「僕」

その時の「僕」は、知らず知らずのうちにいわゆる「正義と悪の成り方」を選択出来るように。

受け入れるものはどちらか?

『一体、何が、どのように、人間を生かしているのか?』

これ以上ないくらいに根源的な問題を書ききってある作品だと思いました。

人間は望んで、または望まないために他人を蹴落とし他人にならい他人にすがります。
そうして大多数にのまれ、それが行うべきものだと錯覚し、自らを捨てます。

それはずるくともなんともありませんが、きちんと見渡せばきっと見えるものが在ります。

誰もそんなふうにしていなくても、たとえ自分が損をするようでも
少しでも心に反応したものであれば試してみて下さい。

正しい行いとかそんな事を云うつもりはありません。

自分で選んで自分で考えて自分で行動する。

それでやっと、「本当の自分」という人間に成れると筆者は思います。
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by ryu-cat | 2012-06-05 23:59 | 日常雑記 | Comments(0)


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