if。

例えば――。



例えば若くして自殺を考えている人が居るとする。

その彼、または彼女に向かって
「そんな親不孝な事は考えちゃいけない!」と説得を試みるとする。

その説得が成功し、彼、または彼女が自殺を考え直すとする。

円満に解決したように見えるが、実際の所、罪悪感を盾に「ねじ伏せた」だけではないのか。

彼、または彼女の「生命」は助かるかも知れないが
彼、または彼女を「助けた」とは云い難いのではないのだろうか。

『「罪悪感」という単語で、その時の行為を思い出してしまうのだから』


――例えば将来を悲観して涙に暮れている人が居るとする。

その彼、または彼女に向かって
「大丈夫、貴方は自分が思っているほど不幸ではありません」と励ますとする。

その励ましの言葉を受け、彼、または彼女が元気を取り戻したとする。

まるで聖人の言葉のように思えるが、実際の所、自分の幸福を見せつけただけではないのか。

彼、または彼女の「希望」が見付かるように思えてしまうが
彼、または彼女の「将来」は変わる保障などされていない。

『他人に「幸福は在る」と云えるのは、「その人が幸福である」という証明にすぎないのだから』


……例えばこの記事を読んで嫌悪感を現す人が居るとする。

筆者、筆者ただ一人に向かって
「せっかく新しい年に成ったばかりなのに、暗い話なんか書くんじゃない!
こんな事は云いたくないけれど、それは貴方の勝手な思い込みだ!
どうしてそんなひねくれた捉え方しか出来ないんだ!?」と思う、もしくはコメントするとする。

それに対し、筆者が聞く耳を持たないように「受け取られる」反論をしたとする。

相手は筆者との会話を止めるだろうが、実際の所、頭に血が上っていただけではないのか。

『どうして「わざわざ」、「こんな事」を書くのかと考えていないのだから』


……高い高い山の頂上に椅子を置き、そこに腰掛けながら見下したような書き方ですが
実際は、その麓で正座をして背筋を伸ばしている気持ちで書いております。

手段は悪いですが、「表面」を際立たせる為には、これが一番ではないかと思いまして。

考えれば考えるほどに、「表面」と「裏面」の見分けは難しい。
難しいというよりも、不可能に近い。

だからこそ、「そうである前提」と「そうでない前提」という
「二つの前提が在る前提」を忘れてはいけない。

人を救ったように見えて守ったのは自分の良心であったり。
人を導いたように見えて自分の事は棚に上げたり。
人を批判したように見えて自分の意見を通したり。

簡単に云えば「第一印象で物事を盲信するな」という訳です。
本当にどうでも良い事だけれど、震災や事故で「盲信家」が爆発的に現れた。

今の「本当に」、もしくは「どうでも」という単語に「ひっかかった」人もその傾向が在るでしょう。

「それ」は正義感とも似ている、というより正義感「でもある」のだけれど
振り上げた拳を「ただ振り下ろしてしまったら」、暴力との差異は微塵ほどしかありません。

もし正義をお持ちであれば、それは貫くものであり、誇示するものではない。

盲信家に釣られて「誇示の競い合い」など以ての外。

直感的な行動は大事です。しかし、熱くなって起こす行動は「一度冷やす必要が在る」でしょう。
そうしなければ、ただ「キレてる」のと何も変わりません。

願わくは、そうした人間関係が増える事を。


――ちなみに、上記三つの「例」について
「そんな自分でも難しいと云うような解り難い事を書くなんて意地悪だ」と思われる人も居るだろう。

「選択する内容」は、その殆どが意地悪なものです。
「簡単な内容」を求める人は、何を与えても「求め続けてくる」でしょう。

偏見ではありますが、そういう人は「簡単なもの」を求めているのではないと思います。

即ち何を「求めている」のか?

それは――。
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by ryu-cat | 2012-01-07 00:33 | 日常雑記 | Comments(0)


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