死に至る病。

シャボン玉飛んだ。



屋根まで飛んだ。

屋根まで飛んで、こわれて消えた。

──メル友が欲しい。

男でも女でもどちらでも良い。
年上でも年下でも構わない。

会話が成立する相手であれば。

出来れば数人欲しい。

あまり多くても困るから、五人前後が良い。

話の内容は、有意義なものが良い。

勿論雑談でも構わないのだけれど、何かについて論議出来れば理想だ。

とどのつまり、話し相手が欲しい。

──筆者の前から去らない話し相手が。

以前、岩波文庫さんの「死に至る病(著:キェルケゴール、訳:斉藤信治)」という本を購入した。

つい最近その本の漫画版が在ると知ったので読んでみた。

ちなみに、この漫画版というのはイースト・プレスさんと
白泉社さんのジェッツコミックスという二つの出版社さんが出版しているのだけれど
筆者が今回読んだのは、ジェッツコミックスの方。

文庫本の方は最近読み始めたばかりで、まだまだ内容が解らないのだけれど
もし、漫画版が素晴らしく要約そして解釈されたものであるのならば
成程矢張り筆者は絶望しているのであろうと感じた訳で御座います。

「絶望しているから何だ?」と思われるであろうと思いますが
一度きちんと整理をしておきたいのです。

何回も何回も「限界だ」というような事を書いてはいますが
そろそろ本当の本当に限界かも知れませんもので。

いや、別に自殺するとかそういう事はありませんけれどね。

『本当に絶望しているのであれば自殺はしない』

かまってちゃんじゃあるまいし、そんな事で注目してもらおうとは微塵も考えていません。

ただ、冷静な間にまとめておきたい。

『自分が、何に対して、どう考えているのか』を。

……大袈裟な表現ですが、「遺書」を書きたいのです。

今はまだ「遺す」という意味での遺書を。

まあ、こうしてキーボードが叩けるし、特にこれという身体的異常は無く
恐らく「元気という部類」に入るとは思うのだけれど、ガタが来ていまして。

かなり昔に書いたとは思うのだけれど、「無意識」に死のうと考える事が在るのです。

昔は山道を運転しながら、谷の在るガードレールに「無意識」にハンドルを切っていました。

この「無意識」に関しては、文字通り「無意識」ですので
学生が授業中にシャープペンシルを指先でもてあそぶように
本人は「している」という自覚が全くありません。

これは『自殺願望の無い自殺行為』なのです。

行動を起こすという事は、自覚は無くとも潜在的に自殺願望が在るから「かも」知れません。

ですが、筆者の場合で云うと、筆者はどれだけ弱音を書いても
「死にたい」と書いた事はこれまで一回もありません。

死にたいくらい辛い状態はかなりの頻度で在りますが
これまでずっと、筆者は「生きていようと模索してきた」つもりです。

それが無意識の間に終わらされてしまうかも知れない。

この事に何より恐怖を覚えました。

ドラマや映画じゃないけれど、常に命を狙われているような感覚でしょうか。

しかし、まだ、この恐怖を感じる事が出来るだけ筆者は「幸せに成った」のです。

この恐怖の先、不安の先、絶望の先に在る「もの」が『絶望を超えた絶望』であるからです。

生きる事も出来ない。死ぬ事も出来ない。
他人を認識する事も出来ない。他人から認識される事も出来ない。
関わる事が出来ない。関わられる事が出来ない。
話す事が出来ない。話しかけてもらう事が出来ない。
自分で居る事が出来ない。自分で居させてもらう事が出来ない。

そうして最後に「こわれて消える」のです。
存在している世界で存在しなくなるのです。

自分も、他人も、希望も、絶望も、『何もかも!!』

全てが自分を通り抜けていく。

それが『死に至る病』です。

──ここでお断り申し上げておきますが、これらは全て筆者一人で考えた事です。

漫画版を読んだから、文庫本を読んでいるから
別の書籍を読んだから、インターネットで調べたからなどではありません。

筆者は人の影響を受けません。

書いてある事は全て「もう考えた事の在るもの」ばかりでしたから。

解っているのだから影響の受けようがありません。

筆者は何も悟っていません。
これらは全て、「人間が内包しているもの」なだけなのです。

胸部を切開してみたら心臓が在った、というようなものです。

勿論目には見えませんし、どう存在しているのか説明をしろと云われれば無理なのですが
「これ」が在るから人間は人間で在るのです。

ただ「発露するかしないかだけの違い」が在るだけ。

絶望している人を見て、「自分はそういう事で絶望しない。違う事で絶望しても乗り越えた」
そういう言葉を云う人が居たら、その人は絶望した経験は無いでしょう。

同時に、「一度目の絶望」をした人、この場合云われた方の人も
同じく「本当の絶望」を経験出来ていません。

乗り越えたつもりでいても、「それはまだ絶望ですらない」という事なのです。

決して「おれの方が辛い思いをしているんだ!」という気持ちを持って云っている訳ではありません。

単純に「気付いていない」という事実を伝えると共に
「それ以上踏み込むと、本当に取り返しがつかなくなる」という事を覚えておいて欲しいのです。

生きたいのなら、目の前の絶望すら藁にもすがる思いで掴んで下さい。

いいですか?

『たとえ絶望でも、そこに何か在るのなら大丈夫です!!』

筆者は昔、ある事で「本当の絶望」を知り、二週間くらい「死にました」

水だけを口にして、栄養失調で視界が回り、身体は今以上に骨と皮だけに成り
友人からの電話で、そのときは幸いにも「希望」を掴んで「生き返った」のです。

ですから、掴めるものは何でも掴んで下さい。

それを過ぎた後の対処法を、残念ながら筆者は知りませんので……。

「でもあんたは生きてるじゃん」

そうです、現在は生きています。
「発作的な無意識」が発生しなければ、また常に警戒し続ければ生きられます。

ですが解決はしていません。

毒か時限爆弾のように、じっくりと状況は続いているのです。

この「死に至る病」が「外」から来たものなら良かった。
風邪のように病原菌が体内に侵入して異常をきたしているのなら。

刃物で切りつけられて、皮膚が裂けているのなら良かった。

でも「これ」は、何処かから来たものでも、何かに因って変化させられたものではない。

『これはここにしかないもので、ここだから在るものなんだ』

心臓の例えのように、心臓が無くては死んでしまう。
そして心臓が在るから生きていけるのです。

「この心臓は、どうやってもこの胸の中でしか存在出来ない」
それを理解すると、死ぬほど知り、死ぬほど失う。

そして死ぬ。

これはそういうものだと筆者は考えます。

「死に至る病」の「死」とは肉体的なものではありません。

「死」とは「消失」です。

存在していても、「消失」していれば「死んでいる」のです。

だから筆者は人と長く話がしたい。
途中で去ってしまわれると、筆者は「消失し始める」から。

人に好かれない性格や、去る為の伏線の用意がいけないのだけれど
否定しても良い、というか否定して欲しい。

「どうか話の最後まで付き合って」
と、心の中では思っている筆者でした。

皆さん、自分や他人をしっかりと見極めて。
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by ryu-cat | 2011-12-02 23:27 | 日常雑記 | Comments(0)


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