外れた矢は、何処へ飛ぶ?
友人の運転で晩ご飯を食べに行く途中、友人が追突事故を起こしました。
環状線の交差点で、前の車と友人が
信号が黄色になった瞬間に信号を過ぎ
そのまま走り過ぎれば良かったのですが
前の車が交差点中央付近でまさかの停車。
車二台分ほどの車間距離が在り、急ブレーキをかけたものの
スピードを落としきる事が出来ず接触。
とりあえず、双方に怪我はありませんでした。
相手の車には女性が二人乗っており
助手席に若い子、運転席にそのお母さん。
他府県ナンバーな上、暗かったので
停止線が解らず、過ぎたと気付いたので停車したとの事。
お互い前方不注意という訳ですね。
特に違反性もありませんでしたので、事故処理は直ぐに終了。
車も小さな凹みが出来た程度で自走は全く問題なく
警察も帰り、あとはこちらもそれぞれ帰るだけに。
しかし、当事者同士は気まずいのか、向き合ったまま沈黙。
そのままそこに居てもどうしようもないので、筆者が帰宅を切り出す事にしました。
「お二人とも、本当にお怪我はありませんね? でしたら、あとは保険屋に。
ナンバーを見たところ、まだまだ距離を走ってお帰りになられるんでしょう。
こういう事の後ですし、本当に気を付けてお帰りになられて下さい」
これで帰れれば良かったのだけれど、何故か話が変な方向に。
「はい。あの、すいません、もしかして芸能人の方じゃないですか?」
「はい?」
「いえ、最近テレビで見たんですよ! ええと、ミュージシャンでしたっけ?」
「ああ。ええ、実は・・・・・・と云いたいところなんですが、残念ながら僕は一般人です」
「あれ? えー、いやね、誰かに似てると思ったんですよねぇ」
──お母さん、それはピントがずれ過ぎじゃあないだろうか。
そのね、「袖振り合うも多生の縁」と云うし
例え事故の相手でも、そうして笑うような話をしても良いと思うんだ。
思うんだけれども、駄目だよ。全く反省を感じない。
「どっちが悪い」という話をしているんじゃあない。
今回は「停止線」が見えなかった訳でしょう?
それが「生物」だったら、撥ねたり轢いたりしていたかも知れないんですよ。
たまたま、運良く、「停止線で済んだ」というだけ。
もし貴女の後続車が貴女のような方で、急ブレーキをかけ遅れたとしたら
小さな凹みでは収まらず、怪我人の出る大きな事故に成っていたかも知れません。
「交差点の真ん中で停まる」という事をしてしまうのですから。
友人にしてもそうです。
どちらかの肩を持つ訳ではありませんが、不可抗力な感じは否めません。
車間距離を空けていましたし、スピードもオーバーしていませんでしたから。
ですが、相手のお母さんと同じく、「自分は悪くない」と思うのはどういう事か。
どうしてこう、「もしかしたら」と考えないのでしょう・・・・・・。
なので可哀想ですが、せっかくの「痛い目に合えるチャンス」でしたので
上記のような事を説明して、顔面蒼白になってもらいました。
文章だけでは伝わらないかも知れませんが、駄目だったのです。
「良かった」と安心している訳ではない、あの「楽天的さ」が。
勿論、人の事を云える立場では無いので、筆者も気を付けなければいけません。
人生は色々な事が裏目に出るし、ミスをしなければ解らない事が沢山在ります。
そうして損をする結果に成るのでしたら、せめていくらかでも
そこから得られるようにしないと、「本当に損をします」
それらは大事な「判断材料」と成り得るのですから。