鏡とナイフ。

馬鹿と云う方が馬鹿。



子供がよく云う言葉ですが、実はこれ、本当にそうなのです。

最近、人を見て「馬鹿だな」と思う事が多々ありました。

例えば、本屋で列に並んでいた時。

一人の男性が書籍の在庫について、店員に文句を云っていました。

断片的な会話から推測すると、在庫が無いと聞いたのに
調べたところ実際は在庫が在った、といった雰囲気でした。

男性はそれを「きちんと探さなかった」と受け取ったらしく
レジにしがみついて店員に延々と説教をしているのです。

そのせいで少ないレジは占拠され、店員も並んでいる人も困っていました。

文句を云いたい気持ちは解らなくもない。

しかし、まず周りを見て、場所を変えるという選択肢を考えられないものか。

男性と店員には解決しなければいけない問題だけれども
他の人には全く関係が無い事が解るだろうに。

「どうして、そんな事が解らないんだろう。馬鹿なのかな」

実際に馬鹿なのは、人を見下した考え方をした筆者です。

男性の行為は馬鹿な行為かも知れません。
知れませんが、馬鹿な行為でも「ないかも知れません」

どちらか一方に決める事は、男性にも店員にも、筆者にも出来ないのです。

だというのに、それを見下して決めるとは何事か。

愚かというのは、きっとこの様な事を云うのだと思います。

「自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になる」

ニコライ・ゴーゴリという作家さんの書いた言葉。

自分より劣っていると思った心こそ、何よりも劣っていて愚かなのです。

人は鏡でありますから、それを非難するのなら、まず自分を非難しなければいけません。
汚い「もの」が見えたのなら、それは自身の「汚さ」でもあるのです。

ずっと考え続けて少しは解ったつもりでいたのに、恥ずかしくて堪らない。

人に対して「そうならない様に」と生きているはずが・・・・・・。

筆者の言葉は、とても鋭利なナイフに似ています。

人を刺し殺したナイフであろうと、ナイフはナイフであって悪意ではありません。

その危険さと使い方を「かじった」心が悪意なのです。

「どうすればどうなるか知っている」上で「してしまう」

本当に、脆弱にも程が在ります。

「僕は耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた」

J・D・サリンジャー、「ライ麦畑でつかまえて」の一文。

まれに筆者はこう在りたいと考えます。

聞いたり見たりした事に対して、幼稚な言葉を発してしまう。

それで人を傷付けてしまうかも知れない。

一種の現実逃避である事は承知しているけれども
そうする事で未然に防げるのであれば。

自問自答の海で溺れない為には、こういう事も必要だったりするのかも知れません。

「馬鹿とはさみは使いよう」

まだまだ上手く使える方法を熟考しなければいけない様です。
[PR]
by ryu-cat | 2010-04-24 02:42 | 日常雑記 | Comments(0)


<< elegy。 若気の至り。 >>